2016年11月08日
熱き想いのままに、様々な困難を乗り越え”夢”を実現させてきた市村製作所の挑戦者たち。企業の発展を支えてきた、知られざるヒストリーを紹介します。
昭和40年。創業当時の市村製作所
JR中央線上野原駅下りのホームを甲府方面に発車してまもなく左側に「市村製作所」の工場群と大きな社名看板が見えてくる。すぐそばには上野原工業団地も立地していることもあり、山梨県上野原市は精密部品加工業が数多く操業し、相互の切磋琢磨による独自の高度な産業立地で、全国的にも有名だ。そのなかで、市村製作所は、従業員100名弱の中小企業ながら、精密金型による電子精密部品加工の分野で国内トップレベルのチャレンジャーとして知られる。
「市村製作所は私が21歳のとき、同年代の若者と始めた会社です。私が会社を始めたときの夢は、自分の力を世に問いたかったからで、金を儲けたいという事だけではなかった。独立する前は、地元上野原でいとこがやっていた金型加工メーカーに就職した。そこで半年勤めて気が付いた。この仕事は大きく発展する、自分の力で金型プレスの仕事をやるべきだ」と。
21歳の大胆な挑戦だった。「私が会社をやるぞと話したら、4人の仲間が(新会社設立に)ついてきてくれた。その中には実妹もいた」。夢を実現することへの熱き想いで、舞い上がってしまったのである。だが、それを「若者たちの暴走」と呼ぶかどうか、そのためには、同社が創業した昭和40年という時代背景も理解しておく必要がある。
その当時、日本の産業界は電子立国による高度経済成長と大量生産、大量消費へひた走るモーレツ時代に突入していた。テレビ、ラジオ、カメラ、時計、自動車などの「マスプロ製品」と言われる製造業は、大量生産のための新しい革新的な部品製造ツールが必要であり、それが金型だった。金型産業は中小企業が多く、日本の電子・電器・自動車産業の世界進出を支える基盤産業でもあった。
マスプロ生産による経済成長の波は、たちまち全国の中小企業に波及し、首都圏に位置する山梨・上野原もその例外ではなかった。市村は若いながら、その時代の波を全身で感じ取っていた。
起業家精神が強い上野原の地域性
「上野原という地域性は、土地が狭いから、外に出たいという『青雲の志』が濃厚にあって、起業家精神が非常に強い。いったん東京で会社を興したが、上野原の起業家を受け容れる地域性に惹かれて、郷里に戻った。国内は高度経済成長の真っ只中で、人さえ集まればいくらでも仕事が来た。時代の波に乗れた」。
市村は、時代の申し子として、経済成長のなかで羽ばたいていった会社の歴史を振り返る。その当時、ガレージのような小工場で、若者たちが情熱をかけて操作に取り組んだ創業当時の金型と足踏み式のプレス機が、現在も本社玄関に展示してある。自分たちが挑戦した原点を忘れないためだ。今では「原始的」とすら見える代物で、若者たちは時代に挑んでいったのである。
わたしたちはここから始まった。そして今日、上野原から日本へ、そして世界へチャレンジし続ける市村製作所がいる。